彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈かった。彼は飛沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。
芥川龍之介『或阿呆の一生』
自己満足という言葉を否定したら
恐くて何も産み出せなくなるじゃないか!
誰かに見られる事が前提じゃないと駄目なのか
評価されたいだけじゃん!!
ペンを投げよう
筆を投げよう
後にアンタに何が残るか知らないけど
ぼんやりとした余生かな?
それも御立派かな?
身投げしたくなる程吐き気がするね
絶望するね
恋愛なんぞ哄っちまうね
馬鹿みたい!
ただ闇雲に戦うだけだ
何と?
色が見付からない
僕は偉大さなど求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と生活に困らない金さへあれば、偉大な芸術など作らずとも満足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あの我の強いワグネルでさへ。
芥川龍之介『闇中問答』