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話題がない

話したいのに話題がない。
う〜(*_*)


なんかすごいつまらない田舎モノ。
だっせー。私。

さっきの記事書いたら

頭つかれたー

多くの他人との出会いによって、 人間は「他人」を発見する。 「他人」を発見するということは、 結局、「自己」の発見なのだ。 つまり、「自己」を発見するためには、 大勢の協力者が必要になる。 岡本太郎

一つの道具のように自分を見つめなさい   byオードリーヘブバーン


就活のために、究極に自己分析を進めている結果、
過去の自分を見返すと、
長所も見えるが、短所にとても目がいく。




また3年前なんちゃら〜と言うのはめんどくさいのだけど、
私は、あの日を境に、
人と距離を置いたし、
かなり都合のいい解釈をして、やるべきことから逃げ続けたし、
そして病気のせいにしてそれを正当化しまくったし、

あんな追い込まれた状況になったのは、母親の「金金!」発言もあったから、 
東京行く訳でもないのに
異常にお金をもらえる習慣になってしまったわけで。

結局、でも閉じこもった状態から抜け出せなくってストレスで食いまくって
そのお金はほとんどコンビニとピザ屋に消費されてしまって。


逃げてばかりで頑張れない。
そんな日々の中で蓄えたのは、

・忍耐力の低下
・意欲の損失
・わがままの正当化
・精神年齢の退化
・自分中心の物事の捉え方
・自分のことしか考えられない器の小ささ


になったわけだ。
まじ底辺。

すべては自分の甘えが生んだ弊害。




現在、リハビリ中なわけで。
しかしやはりまだ完治ではないので、
過去の自分だったら気づけていたことにも気づけていないことが数多くあるわけ。

例えばね、最近、18歳のいとこを見てて、つくづく思うんだよね。
「子供」だな〜って。

どんなところがというと、まず

・自分の都合しか考えていない。
(髪を染めたい、親に許してもらえないで今日大げんか。なぜダメと言われているのか考えもしない。都合の悪いことからは逃げて、自分の欲求だけを相手にぶつける。しかし、明日は弟の受験の日。そんな日にけんかを見せられる弟のことなんてみじんも気づいていない。そして、「○○のせいでできなかった」と人のせいにして、責めるマジナンセンス。
くだらねーんだよ。18にもなったんだったら、自分で少しは考えろや!とね、思うよね。)

・親と対等に話せない。
いつまでも子供ぶって、ママがこーしてくれない、あーしてくれないって。なさけな。自分で考えろ。自分で思うようにすればいいじゃん。

とかね。色々イライラしちゃった。
=これは、自分自身の要素でもあるのね。

過去はこうじゃなかったって言いたいし、そう思うのもあるけど、
結局それは言い訳で、
ふんばりきかないようじゃ、まだまだダメじゃん私。
抑えが効かないなんて、小学生じゃないんだから。


あと、わがまま病のおそろしいのは、「当たり前」になれすぎていること。
何でも周りがやってくれるじゃあ、
23→24としておそろしいわ。


昨日まで気づかなかったことなんだけど、
バイト先に、当然のように、
「12、13出られません!」とか言ったけど、
常識を弁えれば、
「就活で12、13日東京に行かなければならないので、 お休みさせて頂けないでしょうか?」を社長にお願いしなければいけないよね。
自分の都合しか考えていない証拠。
直前のずる休みもね。
今思うとかなりありえない><death。


こんな当たり前のことも気づかないで平気でいるもんなー。
まじ病んでるわww

今日も、私帰りまーす。って真顔で帰ってきた気がしてぞっ!
でもこれは多分考え過ぎw
色々めんどくさいな。私。
一つ一つ克服しよう。











コピペ(過剰な自己愛の昇華について)

心豊かに生きるためには、「自分を愛すること」が必要不可欠です。
しかし、この自己愛というものが非常にやっかいで、行き過ぎたり、活用の方法を誤ったりすると、かえって自分を苦しめることとなってしまいます。
「自己愛の強すぎる人」には、ふたつの型があります。
積極的に自己を顕示しようとするタイプと、逆に自分の殻に閉じこもってしまうタイプです。

顕示型は、外面を着飾ったり、自慢話をひけらかしたりして、あからさまに賞賛を求めるので、よけいに敬遠されてしまいます。判りやすい分、対処法は比較的容易だといえます。
自分を認めてほしいという欲望と、自分を押しつけすぎれば嫌われるという葛藤のはざまで、どこで折り合いをつけるかという問題にすぎません。

一方、自己愛を覆い隠してしまう潜伏型の場合は、解決が困難であるどころか、問題の存在さえ意識されないことも少なくありません。
このタイプの人は、まわりからは謙虚な人と思われ、当人でさえも、よもや自分が異常なまでに自己愛が強いだなどとは思ってもいないのです。

まわりの人は、何も言わないから不満がないのだと思って気にもかけないので、当人は誰にも理解されないという不安に苦しめられます。
不満がないからおとなしいのではなく、不満があっても口に出せず、胸にためこんでいるだけなのです。

他人に心を開けないのは、自分の価値を見いだせないのではなく、むしろ自分を過大評価して、その肥大化した自己愛を壊されることが怖いからです。
当人もそれはうすうす感じているので、他人からさとられないように、また自分でも意識しないように、必死で打ち消そうとしています。
他人から嫌われることを極度に怖れるのは、異常なまでの自己愛という触れられたくない恥部を自覚させられることへの怖れなのです。

いくら自分をごまかして解決を先延ばしにしても、事態は悪化する一方ですので、まずはっきりと自分の心に潜む自己愛を認めなくてはなりません。
自分に関心をもつということは、悪いことでも何でもありません。自己愛のない人は、良心も品性もないただの空っぽな人間です。

自己愛は人間にとって非常に重要なものです。それをどのように活かすかということが問題なのです。
まず、自分の自己愛をはっきりと認めましょう。

自己愛の強すぎる人は、他人と会話をするとき、「うまく話さなければいけない」と極度に気を張りつめてしまいます。
会話を楽しむことが目的ではなく、「成功しなければ、楽しめない」と思い込んでいるのです。
そして、結局、何を話せばいいのか判らなくなり、口ごもってしまって、「ああ、つまらない人間と思われただろうな」と悲観することになります。

食欲をみたすことは誰にとっても大きな楽しみですが、何を食べようかとあれこれ迷うことも楽しみのひとつであり、「何を食べればよいのか判らない」と言って落ち込んでしまう人はいません。
会話も同様に、自主的に楽しめばよいのですが、自己愛の強すぎる人は、就職の面接のように、何を話すかによって自分が試されているように感じてしまうのです。
「自分は、楽しい話をすることを期待されている」という過剰な自意識が原因です。

ムカデは、自分の足と足がぶつからないように、動かすタイミングを微妙にずらして、器用に歩いています。
ある日、意地悪なキツネに「そんなにたくさんの足をどういう順番で動かしているんだい」と尋ねられ、それ以来、ムカデは歩くことができなくなり、飢え死にしてしまった、という説話があります。

歩くことは、移動するための手段にすぎないのに、「見られている自分」を意識した途端、上手に歩かなければならないと緊張して、足がからまってしまったのです。
大切なのは目的であるのに、手段そのものをそつなくこなすことにとらわれすぎれば、本来の目的を見失ってしまい、主客転倒となってしまいます。

「他人から尊重されたい」という欲求を満たすには、「いかに尊重されるか」というこだわりを捨て、まず、自分が尊重されたいように他人を尊重しなければなりません。
はじめは勇気がいることかもしれませんが、それが一番の近道なのです。

自分が褒められたいように他人を褒め、気を遣ってほしいように気を遣ってあげてみてください。十人のうちひとりでも愛情を返してくれる人がいれば儲けもので、その積み重ねが自信につながります。
「他人から尊重される人」よりも、「他人を尊重することができる人」のほうが、百倍もすばらしいのです。
自分が他人を尊重することは、誰からも侵されることのない、揺るぎない自信へとつながります。





www.h5.dion.ne.jp

コピペ(自己愛について)

自己愛が強い人は
満たされない傾向が強い。

それが大人ならば、もっと。

満たされていないからこそ
余計に自己愛を満たそうと
周りの人を満たすための道具としか見えなくなってしまい
良好な人間関係を築くことができなくなる。



そうすると、自己愛の傾向がさらに強くなって…


















例えば、自己愛が満たされていない母親が居るとする。





子供や恋人は自分を満たしてくれる、つまり
外部の存在が自分の思い通りになっている期間は自己愛を満たしてくれる
対象があるからいいけれど、
根本的な自己を自分で満たしてあげることができていないから
自己愛を満たすために思い通りに動かしていた子供がちょっとでも反抗して
自分の思い通りにならなくなったり離れていってしまったりすると
たちまち不安になってしまう。



これらは、みんな自分の外側にあるものです。
一時は気分を良くしてくれますが、効果はすぐなくなるので、
何度も繰り返したり頻度を高めたりする必要が出てきます。
そして、それらに自分の生活を支配されて日常がままならなくなります。



ドラッグアルコール、仕事に、人に、セックスなどでも同じです。

救いを求め、幼い頃に得られず、
今も得られていない愛情をとりもどそうとするのです。


自己愛が満たしていない自分を忘れるために
これらのことに依存して満たされていない自分という現実から
一時的に逃れているだけなのです。


自分自身から逃げ出すのに精一杯で自分の内側にある空虚さを埋める
健康的な方法を見つけることができません。


出典:d.hatena.ne.jp


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