全身筋肉痛で立ち上がるのさえ一々変な声が出てしまう

ウグオオオとかフンヌウウウとかングエとか

いきなりヒンズースクワット130回はあかんて。絶対変に筋肉痛めるって

脇腹痛も相変わらずなもんで、もうどこに力を入れるとどこが痛むのかわけわからん



つらつら、元恋人達のことや好きだった人たち、家族なんかのことを考えていた

私は嫌われたり何処か遠くへいってしまうのがこわくて

求められるまま、それに応えることしかしてこなかった

それは確実に私の何かを磨り減らして、同時に私を安心させてもくれていた

私が応えているうちは、少なくとも、相手の命だけは無事だから

精神も、ぎりぎり最後の線を保っていられるから

時間も心も身体も、相手の命と比べれば大したことはない

私も求められるうちは、生きていなきゃって思えた。生きたいとか死にたいとか、難しいことに囚われないでいられるから

同時に、何処かで、私なんて死ねばいいとも思っていた

心の奥の奥は騙し切れなくて、こんなの間違ってるよってずっとずっと訴えてきた

失わずに済む方法を探し続けてきて

私が縛り付けたり縛り付けられていれば失わずに済んだかもしれないけれど

そんな時は、必ず、何処かで悲しむ人が居た

怒らせてしまう人、泣かせてしまう人が居た

私は鈍いから気付いていないだけで、もっと沢山の人達に言葉を呑み込ませていたのかもしれない

隠せていたのかもしれないし、バレバレだったかもしれない


大好きな人達の手を放すのはつらかったし

こうして離れているうちに、ある日突然ぽっくり死なれてしまうかもしれないと考えると、こわくて泣きそうになる

最期まで傍に居ればよかった、一緒にわらっていればよかった

私が離れたから不幸にさせたかもしれない

死んでもいないのに、そんなことばかり考える

そして必ず来る最期の時には、誰に何をどう言われようが、やっぱりそう思ってしまうのも分かってる


正解なんて本当はないのかもしれない

私が傍に居続けた方が、幸せを感じられたままの人が居るかもしれない

私が残り短い幸せを奪ったかもしれない

裏切ったかもしれない

きっと私が死ぬまで、正しかったのか分からないまま、考え続けなきゃいけない


元カノさんや、両親とのことはやっぱり記憶に新しくて

私が前を向いて歩く力を手に入れる為に、必要なことだったんだろうな

試されていたのかもしれない

今思えば、そんな生き方をしていた私にそんな問題が降ってくるのは必然だったんだよな


両親からのメールや、母からの手紙

いろんなことが書いてあるけれど

「あなたが幸せに生きていることが私達の幸せです」

そう綴られているものも確かにある


多分ね、大切な誰かが一人でも悲しんでいるうちは、幸せじゃないんだ

綺麗事かもしれないし、他の人は違うかもしれない

私にとっての幸せは、今のところそれが答え

必要なら、何かを言葉にしなきゃならないのだろうし、ちゃんと正しい形に関係を変えなきゃならない

手に入れることは、失うこと

手放すことは、守ること


私の為に怒ったり泣いてくれたり

私が今幸せだとわらった時に「良かった」とわらってくれる

そんな凄い人達を裏切りたくないし、肩を並べたい

死なない、生きる

だから強く心を持とう

まずは、ぜんぶぜんぶ、しっかり抱き締められるように



今日会社までたどり着ける気がしない(しろめ