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すりガラス

 鐘子は昔からすりガラスが嫌いだ。


 一番古い記憶は、四歳くらいの頃。すりガラスに突っ込んでガラスを粉々にしたことがあった。このとき、鐘子には一切の傷がなかった。これを守護霊が守ったからだ、なんだと母親に言われたが、本当にそうだとしたらどうしてつっこませたのか? ガラスの向こうにいた人に呼ばれて突っ込んだのだから。

 中学校の修学旅行のとき。
 旅館のトイレの入り口がすりガラスだった。用を済まして、出ようとすると、ガラスの向こうに緑っぽい服の人影があった。
 扉を開けると、遠くに足音。
 考えてみると、私たちが着ていたジャージは青。この日は貸し切りだった。

 大学のころ。いまは改修されたが、講義棟の研究室が並ぶ廊下は暗く、また一部の教授の研究室入り口の窓はすりガラスだった。
 あるとき、教授にレポートを届けに行く。研究室の前に立つと、すりガラスの内側に頭の影が見えた。誰か先客がいたのか、それとも教授が立っていたのか。いずれにせよ、入り口付近に立っている理由はよくわからない。
 ノックをしてみたが、返事はない。とりあえず、開けてみようと、ノブに手をかけた瞬間、後ろから呼び止められる。教授だった。
 中には誰もいない。
 あのとき、ノブを回していたら、なにを見ていたのだろう。時々、考えることがある。

 四度の引っ越しを経たいまの鐘子のアパート。六畳の部屋の入り口がすりガラス。
 越してきてすぐのある日、どこからか視線を感じた。振りかえると、部屋の外、玄関前にこちらに背を向けてセーラー服の女子高生が立っている。
 女子高生はすりガラス越しではなく、はっきりと見えた。たまたま、部屋の入り口のガラス戸を開けていたから。目をそらした瞬間、消えた。
 はっきり見えて、逆に安全なのかもしれない。が、ふと思うのが、別に今まで危険だったわけではないということ。
 次にガラスに突っ込んだときは、命がないかもしれない。
 なんとなく、覚悟はできた。

献花

振り返ると、姉の親友――詩春さんが足を止めていたので、鐘子は慌て引き返した。


「どうしたの?」


俯いていた詩春さんは、顔を上げずにほうとため息をつく。


「かわいそうにね、こんなとこで」


彼女は所謂「見える人」である。見えているのかいないのか、自分でも曖昧な鐘子と違い、詩春さんはごくごく当たり前に「それら」と生活している。


だから、言葉だけでなんとなく察しはついた。


「何が見えるの?」


えっ? と、詩春さんはきょとんとした表情で顔を上げた。そしてもう一度視線を道端に落とす。


「……じゃあ、これも無いもの≠ネんだ」


彼女は寂しげに笑った。


「お花がね、供えてあるの」


 形だけ残ってることけっこうあるんだよ、と続けたらしい。


詩春さんは目を閉じ、手を合わせた。今向いている方向がちゃんと花のあるほうであるのか自信がなかったが、鐘子も彼女に倣って手を合わせた。

耕す

 四度目の引っ越し先の相談に、いつもの不動産屋を訪ねたときのこと。すっかり顔馴染みになっていた担当の永野さんが、以前鐘子の出身地を訪れたことがあるという話を聞いた。

時々、無性に独り歩きをしたくなるタチの永野さんは、普段降りる人なんか一人もいないような無人駅で降りてしまうことがある。
 この時もちょうど同じような感じで、目的の駅まであと二駅もあったのに、全然関係のないある駅で降りてしまった。後ろは山、前は海。この駅で他に降りる人はいないようだ。永野さんが降りるときも乗客達が一斉に彼のほうを奇異な目で見たので、なんだか胸クソ悪かったくらいだという。
 無人改札を出ると、目の前に山があり、道が左右に分かれていた。降りる人がいないわけである。どちらに進んでも行き止まりだ。少し険しい横道を通れば国道に出られるようだが、わざわざそんなルートを辿るよりはこの駅の前後で降りたほうが早いだろう。
 永野さんはとりあえず右の道へ進んでみた。山沿いに家が二軒離れて建っているが、どちらも空き家のようである。一軒はまだ小綺麗にも見えたので、あるいは住人がいたのかもしれないが、もう一件は半壊しており、人の気配は全くない。この家にたどり着くまで随分荒れた山道を通ってきたが、こんなところにどういう気持ちで住んでいたのだろう。それより先は行き止まりで、ただの林があるだけだったので一旦駅の前まで引き返した。
 次に、彼が反対側の道を進むと、いくらか整備されており(と言ってもぼろぼろのアスファルトが敷かれていただけのことだが)、いくらか生活感のある家が一軒だけ建っていた。こんな辺鄙なところでどうやって生活しているのだろう。
 しかし道を辿っていくと、やはり結局は山に入っていくだけで何も無さそうだった。それでもとりあえず道が続く限りは行ってみようと思った彼がギリギリまで進むと、突如切り立った崖になり、それ以上は進めそうもなかった。
 諦めて帰ろうと踵を返すと、道から逸れた所の林の中に誰かいるのが分かった。遠かったし、後ろ姿だったため、何をしているのか分かりようがなかったが、何もせずに突っ立っているだけのように思えた。その人はしばらくするとゆっくりと奥の方へ歩いていってしまったという。
 とりあえずその人が立っていた場所あたりまで行ってみる。立っていたと思われるところの一メートル四方くらいが、耕されているようだ。地面の色が周りと違う。
 山の中だし、こんな狭い範囲を耕す意味も分からなかったが、このへんに住んでいる人なりの農業の工夫なんだろうと思ってその場を後にした。


 


*



「本当に人がいたんですか?」


 鐘子の言葉に永野さんがキョトンとしたのが分かった。


「あそこ、今誰も住んでないんですよ」


「誰も?」


あの駅周辺で起こった水害の話、住民は土砂崩れにあって全員亡くなっていること、それらについては触れなかった。


「きみが住んでた頃の話だろ? また誰か越してきたのかもしれないじゃん」


そう言いながら彼は鍵の受け渡しの日程等が書かれた資料をコピーしに立ち上がろうとした。
「越してきても、また出ていっちゃうんですよ。なぜか異様にカビが繁殖するんだそうです」


なんでもかんでもすぐ湿っちゃうらしくて、と言い掛けて言葉を続けられなかった。
 地面の色が違ったのは、耕されていたからではなくて、濡れていたからだったのだろう。

怠慢な方法

 深夜二時を回る頃には客も途絶えてくる。レジに二人も立っている必要などなさそうだ。それどころか控え室でも山崎さんが一人伝票を整理している。隣に立っているのが店長であることを思い出し、あくびを噛み殺した。


「呪いってのは、鐘子ちゃんわかるのかな?」


思わず横に立っている人物を確認する。返事をすることさえ忘れていた。疑問文であったにも関わらず、店長が鐘子に回答を求めているようには見えない。ぼーっと前を見据えたままである。


「口へんに、兄の?」


「それ」


自分で話をふったくせに、彼は興味なさげに一つ大きなあくびをした。黙ったまま二人立っていることが気まずかったから切り出したのであろうが、そんな妙な話に自分が食い付くと思ったのだろうか。そうだとすれば心外だな、と鐘子は思う。


「呪いやってんだ、俺」


再び鐘子は隣の人物が店長なのかを確認するハメとなった。今度は視認しても自分の目を信用できなかった。


「どうやって?」


初め、鐘子自身これが酷くずれた質問であるように思えた。しかし、「なぜ?」や「誰を?」を尋ねるのは余りにも怖すぎて、結局はこれがベストな質問だったのではないかと分かった。


「まぁ、ポピュラーなヤツだよな。クギ打ち込むだけ」


唇が乾くのを感じた。鐘子が何も返さないでいると、店長は、またやる気なさそうに虚空を見つめ出した。


「ワラ人形の、ですか?」


質問せずにはいられなかった。この状態では、あまりに抽象的で、結末が宙ぶらりんになっている。想像はあらぬ方向へと掻き立てられる。


「それ。それだけど、ワラ人形作んのめんどかったからティッシュでやった。てるてる坊主みたいなやつでさ」


鐘子が興味を持ったと思ったのか、店長はとうとうと語り出した。


丑三つ時ということだけは守ったらしいが、神社まで出掛けることも、白装束を揃えることもせず、ただ部屋の中で一心不乱にクギ(これもおそらく五寸釘ではないだろう)を「てるてる坊主」に打ち付けたのだという。


「形なんかどうでもいいんだよ」


そういって彼は鼻を鳴らす。鐘子もそこで相槌を打つのをやめた。


しばしの静寂。もう我慢ができなかった。


「どうなったんですか?」


相手の人、とは付け加えなかった。店長は口元に軽い笑みを浮かべた。


「別に死ななかったよ」


ようやく鐘子は胸を撫で下ろすことができた。誰にでも負の感情を抱いて、相手を呪いたくなることくらいある。店長もその相手によほど酷いことをされたのだろう。そう、自分を納得させる。


これでもうこの話題は終わりになるはずだった。


「坂脇って、いたろ?」


聞きたくなかった。耳を塞いで叫び出してしまいたい。坂脇さんが店長に突っ掛かる人だったことを知っているから。


「死にはしないけど、嘔吐下痢症みたいになるらしいな」


アレはアレで大変だったろうな、と店長は笑いを噛み殺した。


後ろの控え室から呻き声のようなものが聞こえ、鐘子は思わず悲鳴を上げた。


「あはは、大丈夫。山崎の声だろ」


分かっていた。


「うぇ、おうぇ……」


山崎さんは、えづいている。何の話かは知らないが、昨日彼は店長ともめていた。店長は、口を押さえながらトイレへ駆け込む山崎さんをニコニコしなから見つめている。


その日のうちに店をやめた。

王子サマ

「王子サマ願望、みたいな?」
 川崎さんは自分の言葉に恥ずかしくなったのか、おちゃらけるように笑ってみせた。
「上京してきた頃って、もう全然友達いなかったからさ」
 ぶっちゃけ何でもよかったんだよね、と続けたようだ。あとになるに連れて声より息の音の比率が高まり、ほとんど聞き取れなかった。
 彼女の言葉が途切れると、車内の喧騒が蘇る。彼氏に落ち着きがないと言われたという話をべらべらと語る、確かに落ち着きがない学生に苦笑してしまいたくなる。向かいの席に座っていた男性はそれが耳に入ったのか必死で笑いを噛み殺しているようだ。
「王子サマ願望……ってのは?」
「あぁ、それだよ、それ」
 話したくなさそうだったから、辞めておくべきだろうかと思った。しかし、皮肉にも「話したくなさそうだった」ことが、鐘子の好奇心をそそった。
「もう、別に人じゃなくていっかな、って」

 霊に同情すると、寄ってくるという話を聞いたことがあった。その真偽など、当時の川崎さんにはどうでもよかったそうだ。サークルにも入っておらず、特段の趣味もない。バイトも接客に回されなかった彼女は、休日ともなれば一日誰とも口を聞かないで終わる日も多かった。
「参っちゃった、神経が。リアルに死ぬんじゃないかって」
 食事や睡眠を何日もとっていない状況と似ているのではないか、と思ったという。そのレベルまで、確かに彼女は逼迫していた。胸が締め付けられる気持ち。恋愛小説のような綺麗なものではなく、ただただ息が苦しく、誰でも構わないから側にいてほしかった。その状態まで落ち込んで、しばらくすると誰でも≠ニいう感じですらなくなってくる。
「何でも≠謔ゥったンだ」
 異常だな、とは自分でも思えたそうだ。それでも彼女は辞めなかった。
「特別な儀式とかじゃないのよ。そもそもそんなの知らないし。ただ、こういうのって、気持ちの問題だと思ったンだよね」
 布団に潜り込み、左手だけを外に出す。そして、
(まだ若いのに死んでしまってお可哀想に。もう大丈夫ですよ。私の手を握ってください)
 と、ひたすら祈り続けたのだという(「若い」というのは彼女の希望だったらしい)。

 気が付くと、先の落ち着きがない学生は下車していた。向かいの男はいつの間にか眠っている。終着駅が近づくにつれ、車内は静かになり、川崎さんの声だけが続いている。
……それで、王子サマってのはいつ出てくるのよ?」
「人間、上手く行き出すと欲が出ンのよ」
 川崎さんは、小さな声でアハハと自嘲するような笑い声を絞り出した。

 彼女のわけのわからない行為は実を結んでしまったのだ。
「最初は、おばあちゃんだったの」
 指先を捕まれているかのような違和感に薄目を開いた先に老婆を見たときは、さすがに驚いたものの、思いの外恐怖心は芽生えなかったという。
「今思えばそれもおかしいケドさ。若い、って言ったのにクソとか思いながらもちょっと嬉しかったのネ」
 老婆は薄目を開いた川崎さんと目を合わすことも、また何かしらの意思を示すようなこともなく、ただじっと彼女の手を握っていたという。老婆はその後現れることなく、それっきりだそうだ。
 翌晩は小学校低学年くらいの裸の子供だった。
「これは、ちょっと怖かったの。『呪怨』に出てくるコ思い出しちゃって」
 奇声を発する母親のほうは現れなかったらしいが、子供もじっと彼女の手を握ったままだった。彼もまた二度と出てこなかったという。
 三日目ともなれば慣れが生じるものなのだそうだ。
「今日はどんな人が来ンのかな、みたいな」
 毎晩代わる代わるいろんな人がやって来る。リーマン、女子高生、侍、厳つい囚人風の男に至るまで。「若い」人を募集≠オているにも関わらず、明らかに年齢制限に引っ掛かったような連中が大半を占めた。

「こっちがびっくりするくらいさ、ナンもしてこないの。ただ手を握ってるだけ」
 そう言って横に首を振る。
……だから、飽きちゃって。本命のヒト探して、もっと深めていきたいな、みたいな」
 川崎さんはニヤリと笑った。
「憧れるじゃない、寂しさに泣いている私を救ってくれる王子サマが現れる、みたいな状況」
 自分で言ってても気持ち悪いな、と彼女は目線をそらした。

(もっと恋したかったでしょう。今からでも間に合います。私もずっと寂しいです)
 翌晩から彼女はこんなメッセージに変えて、虚空に向かって発信し出した。効果はテキメンで翌日から男ばかりがやってくるようになる。
「やっぱり、誰でもいいから慰めてあげましょうってンじゃなくて、具体的に目的を定めないといけないのね」
 しかし、現れるのは太ったオタク風だったり、勉強しかしてこなかったような顔した奴だったりと、彼女のハートをくすぐる「王子サマ」はなかなかやってこない。
「人生でこんなにモテたことなかったからね。来る男を切り捨てて、切り捨てて、あれはあれである種楽しかったかも」
 彼女がはっきり拒絶の意思を示すと思ったより男たちはあっさりあきらめた。だから生前彼女ができなかった(と思われる)のじゃないかと川崎さんは思った。
「数打ちゃ当たるよ、ホント。あれは嘘じゃないね」
 それまでに現れた全ての人物が無表情に彼女の手を握っていたのと同じように、その日現れた青年は何の表情をも浮かべていなかった。それなのに、彼女には笑っているように見えたのだという。
「ほら、Gacktとか、あんな感じのさ。なんていうのかな、シンピ的な表情?」
 川崎さんはようやくその青年に満足した。
(好き好き好き好き好き……ずっと一緒にいて……
 一晩中彼女は祈り続け、気が付けば朝になり、青年もいなかった。
「毎晩のことだから、朝になるとやっぱり『もう来てくれないのかな』とか思っちゃって」
 本命にもう会えないのではないかと考えると、寂しさは普段より増していた。いつものように誰とも会話をする機会に恵まれないまま一日を終え、帰宅すると、部屋の中に違和感を覚える。
「妙な感じ。例えば、モノの配置が変わってたり、ドアが開いてたりとかじゃないんだけど」
 空気が動いている感じだった。そこに何か異質なものが有った(もしくは現に有る)かのような。念のため、部屋中の鍵を閉め直し、通帳や財布が盗まれていないことを確認する。それでもそのおかしな空気を払拭することはできなかった。
「そういや、なんかついてきてる気もした」
 気持ちの悪くなった川崎さんが部屋の中を右往左往すると、自分のまわりの空気だけが奇妙に歪んでくるようだったという。
「それでさ、これはアイツじゃないかなって。昨日の王子サマじゃないの、って」
 川崎さんの予想は外れなかった。その晩も例の青年は彼女の手を握りにやって来たのだ。

「ようやくあたしも報われたンだなって」
 川崎さんは今度はエヘエへと断続的な声を上げながら笑い出す。続きの話がいっこうに始まらない。
「それで?」
「え?」
 川崎さんはきょとんとした顔で私を見つめた。
「そのあと、どうなったの?」
「いや、普通に……
 普通に? 川崎さんのここ数日の異常なやつれ具合を見て普通と考える人はまずいない。普段はほとんど話したこともない彼女だが、バイト仲間としてさすがに心配になって声をかけたのだ。
「幽霊でもイイ人はイイ人なモンだよ。いつもいてくれる。最近はずっと一緒なンだ」
 アナウンスが聞こえ、駅に停まった。
「あたしたちここだから。久しぶりにヒトと話せてよかったよ。また明日ね」
 川崎さんはそう言って電車を降りていった。向かいの席の男も立ち上がり、彼女のあとを追うように降りていく。
 ここは女性専用車両のはずだが、鐘子は気付かなかったことにした。