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ひよかのお部屋 chapter3

 世界は三つに分断されてる。
 世界の転換。
 今がそうであると、ひよかは考えていた。
 世界というとなんだか大げさだとひよか自身思っていたが、あながち間違った表現でもないと確信もしている。

 最初の世界は小学校まで。
 この頃は、家と学校のあいだまでしか自分の世界がなかった。
 極端な言い方でもない。通るすべての道筋は決まっていて、他の選択肢なんか考えたこともない。
 案外、小学生っていうのはそういうものだったんじゃないかと彼女は思う。勝手気ままなようで、実はあらゆるところが管理されている。
 だからみんな、早く大人になりたいと願う。ひよかもその例に漏れなかった。
 時折、ひよかは夢を見る。小学生の姉と西浜が笑っている。中学生になろうとする二人が笑っている。ぐいぐいと食い込んでくるような痛みの理由は、大人になればわかるだろう。そう思っていた。
 当時のひよかには、中学生は大人でしかなかった。

 二つめの世界。
 中学生になって、自分で考えて行動しないといけないことが増えてくる。
 つまり、管理された画一的な世界から抜け出して、自分たちの世界を創造する段階に入るわけだ。ただ、このとき創られる世界はひどく不安定で、不完全、いびつなものと言ってもいい。
 勉強一筋で東大を目指すガリ勉。
 未成年のうちから酒、タバコ、セックスに明け暮れる不良。
 社会にも自分にも心を閉ざす不登校の引きこもり。
 無限に広がった選択肢の中から選び出す道。小学校の頃は「みんな可愛い」でよかったけれ、この頃からそれぞれの人生が見えてくる。
 この二つめの世界に影響を与える最も大きな要因が、友人関係だと彼女は考えた。ただ人間関係という抽象的なものじゃなくて、友人関係。
 何かしらここで世界の転換となるような出会いが、みんなあるはずだとひよかに思う。それは友人相互のものとは限らない。一方的に影響を受けただけということもある。
 西浜。中学生になったひよかに憧憬と情熱を与え、高校生になったひよかに快楽と失望を与えた。そして、大学生になった彼女が抱くのは、執念と絶望であるように思えた。
 ひよかは、執念を燃やす自分自身に絶望していた。
 この世界はそろそろ終焉を迎える。はじめから、終わりの見えた不安定なもの。終わらなければいけない世界なのだ。

 これから迎えるのが三つめの世界。
 二つめの世界がおぼろげに目指していたもの、いわば二つめの世界は三つめの世界に手を届かすための踏み台。
 ひよかはついに届いてしまった。それが、新宿線沿いの安アパートである。
 三つめの世界は完成形を目指す世界。自分たちの人生を作り上げる、すべてを終えるために。
 なんであろうと、追いかけてきた。追いかけてきたその男を、必ずあの部屋に連れていく。
 そういう人生を選んだのだ。

 ひよかは講義棟に向け、走りながら気付き始めていた。
 黒島が、燃えたときの自分自身であることに。痛みと憎しみの中、最後に聞いたのは、ゴム製品をビニール袋から取り出すあの音だった。

ひよかのお部屋 chapter2

 ――バカみたい。
 西浜にそう言ったのを覚えている。だけれど、今自分のとっている態勢、やっていることを見て、西浜も同じようにため息をつくだろうか。

 二つ年上、姉の彼氏だった西浜。ひよかはその男の上にいた。背中の下に回した右手に、二人分の体重がかかって痛かったことを思い出す。
 誘ったのはひよかのほうだ。ただ姉を訪ねていっただけだったはず。一人で留守番していた男、エアコンの効かない部屋にこもったにおい。そんなもろもろのせいにしようとしても、結局、ひよかは西浜を前から好きだった。前から、姉を羨んでいた。憎んでいた。
 西浜の耳がぴくりと動く。
 ――来てみろよ。
 ごそりと立ち上がり、西浜が言った。ひよかは同じ格好をしたまましがみついている。右手にまた血が流れ込むのを感じた。
 おもむろに、ベッドから身を乗り出して壁に耳を当てる。
 ――なに?
 ひよかは男の不自然な行動にも何一つ不信感を抱かなかった。ただ、動くたびに壁に当たってしまう狭い部屋に、どうやってこのベッドを運びいれたのだろうと考えていた。
 ――お前の姉ちゃんは好きなんだぜ?
 ――だからなにが?
 ひよかは西浜から離れようとせず、また男の行動を真似ようともしなかった。
 音。
 そんな折、隣から音が聴こえてくる。声も。それはつい今しがたまで自分たちが発していたもののよう。
 身体から力が抜けていく。穴が空いたかのようだった。
 ――バカみたい。
 ひよかは右手でぐしゃぐしゃになっていた髪をかきあげ、ため息をついた。西浜でなく、自分が酷く愚かだと思った。

 黒島が耳を当てていたのも、同じ理由だろうか。とてもそうは思えない。
 そうであるにしては、黒島は悲痛過ぎる姿、単に見た目ではなく雰囲気すべて。歩きながら、身体を引きずりながら絶望している。
 絶望している黒島はなぜ壁に耳を当てるのだろう。
 今、自分は得たいの知れない絶望している何かと同じように、壁に耳を当てている。もしかしたら、自分自身絶望しているのかもしれない。そんな気さえする。
 そうかもしれない。
 考えた。どうして自分が西浜と同じ大学に、同じ学部に進学したのかを。なのにどうして西浜に会いに行く気が、勇気がないのかを。
 と。物音に気付く。隣の住民が帰ってきたらしい。意識していたことはなかったが、壁はあまり厚くないようだ。
 ビニール袋。ことり、ことり。何かを取り出して、置く。またビニール袋。それから、戸の明け閉め。ただの生活音。
 何かがわかるとは到底思えない。
 それでもひよかは、残念がることもなく、一心不乱に聴いていた。そうしていることで、自分ではなく黒島であれると思った。自分でなくなれると思った。

 足音。笑い声。電車。それらが窓の外から聴こえることに気付く。
 朝になっている。
 壁にもたれたまま眠っていた。
 今日は講義がある。慌て支度をして、ひよかは玄関を飛び出した。
 違和感。
 振り返り、硬直する。
 ひよかの部屋は隅にある。昨日耳を当てた向こうに、部屋はない。
 ――バカみたい。
 自分の声が耳元でささやいた気がした。

ひよかのお部屋 chapter1

 とりあえず、ひよかは今の部屋が気に入っていた。
 中央線の沿線は治安が悪い。嘘だったのか本当だったのかわからない。不動産屋にとって、高いとこと契約させることが利益になるのかはわからないが、なぜか薦められたのは「治安“は”良い」という新宿線沿いの極めて安いアパート。
 築年数は気になるものの、改装されたばかりということもあり、内装は綺麗。すぐ近くにはだいたいのものが買える大型のスーパーもある。だから、断る理由なんてなかった。
 だから、ひよかは気にもしなかった。気にもならなかった。

 学校に行くとき以外はろくに外出もしない。その学校さえ、ときどき行かないことがある。
 ひよかはもっぱら部屋にいた。実家を出るとき、せっかく買ってもらったけど、自分が思いの外テレビに興味がないことに気付いた。それだけじゃない。読書やネットサーフィン、自炊にゲーム、散歩すらも。ひよかの関心はどこにも向かない。これは一人で暮らしてみるまでわからなかったことだった。
 かといって、退屈ではない。無意味、無感動に流れていく時間の流れの中、ただ身を任せて目を閉じる。それはそれで、心地よい。時折聴こえる電車の音、犬の鳴き声、自転車のベル。
 まどろみ、夢か現実かわからない状態で、うとうとする。
 そんなとき、決まって黒島がやってきた。
 黒島はいつもお風呂場からやってくる。ごくごく自然に、爛れた黒い皮膚を引きずりながら、ゆっくり近づいてくる。苦しそう、恨めしそうというより、「よっこいしょ」とでも聞こえてきそう。
 それが黒島という名前なのかどうか、実のところひよかにはわからない。ただ、自然と頭に黒島と浮かんだし、黒く焼け爛れた姿にはその名前が似合っていると思った。
 初めて二人が出会したとき、驚いたのは黒島のほうだった。ひよかに気付いたそれは、目があったと思われる穴をしょぼしょぼさせ、少し後ずさりした。しかし、しばらくして思い直したように部屋に踏み込んできた。
 ひよかは、ぼんやりと恐怖を感じたものの、それよりは不動産屋の「治安“は”良い」を思い出して、腹を立てていた。怒りが表情に出ていたのか、ちらりとひよかのほうを振り返った黒島はおずおずと寝ているひよかの横を通りすぎる。
 なぜだか、物凄く申し訳ない気持ちになる。勝手に人のうちに踏み込んでしまったかのような。それで、「あなたは悪くないんです」と必死で黒島に向けて念じた。声は出せなかった。

 黒島がやることはいつも同じ。
 壁に耳を当て、隣の部屋の様子を伺う。30分くらいすると、諦めたようにお風呂場に帰っていく。小さくひよかに頭を下げて。
 初めてのときだけ感じた恐怖心は、いつしか無くなっていた。むしろ、黒島が来ないと心配になるくらい。何せひよかに害はなかったし、むしろこちらが邪魔をしているように思えたから。自分がいることで、黒島がやっている何かが出来なくなっているんじゃないかと。
 黒島がやっている何か?
 気になった。いったい、あれが何をしているのか。
 大好きな自分の部屋に暮らす、もうひとりの住人。助けてあげたいと思った。

 だから、壁に耳を当てたのだった。

恵方

今年の恵方巻。
南南東を向いて食べればいいらしい。

コンビニが毎年飽きもせず発売する嫌に値のはる恵方巻に、鐘子は南南東のある壁を向いてかぶりついていた。

ふと気が付く。
足元に転がったパック。

熱量610kcal。

鬼を内に取り込んでしまった事実に、鐘子は久しぶりに戦慄していた。

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