――バカみたい。
 西浜にそう言ったのを覚えている。だけれど、今自分のとっている態勢、やっていることを見て、西浜も同じようにため息をつくだろうか。

 二つ年上、姉の彼氏だった西浜。ひよかはその男の上にいた。背中の下に回した右手に、二人分の体重がかかって痛かったことを思い出す。
 誘ったのはひよかのほうだ。ただ姉を訪ねていっただけだったはず。一人で留守番していた男、エアコンの効かない部屋にこもったにおい。そんなもろもろのせいにしようとしても、結局、ひよかは西浜を前から好きだった。前から、姉を羨んでいた。憎んでいた。
 西浜の耳がぴくりと動く。
 ――来てみろよ。
 ごそりと立ち上がり、西浜が言った。ひよかは同じ格好をしたまましがみついている。右手にまた血が流れ込むのを感じた。
 おもむろに、ベッドから身を乗り出して壁に耳を当てる。
 ――なに?
 ひよかは男の不自然な行動にも何一つ不信感を抱かなかった。ただ、動くたびに壁に当たってしまう狭い部屋に、どうやってこのベッドを運びいれたのだろうと考えていた。
 ――お前の姉ちゃんは好きなんだぜ?
 ――だからなにが?
 ひよかは西浜から離れようとせず、また男の行動を真似ようともしなかった。
 音。
 そんな折、隣から音が聴こえてくる。声も。それはつい今しがたまで自分たちが発していたもののよう。
 身体から力が抜けていく。穴が空いたかのようだった。
 ――バカみたい。
 ひよかは右手でぐしゃぐしゃになっていた髪をかきあげ、ため息をついた。西浜でなく、自分が酷く愚かだと思った。

 黒島が耳を当てていたのも、同じ理由だろうか。とてもそうは思えない。
 そうであるにしては、黒島は悲痛過ぎる姿、単に見た目ではなく雰囲気すべて。歩きながら、身体を引きずりながら絶望している。
 絶望している黒島はなぜ壁に耳を当てるのだろう。
 今、自分は得たいの知れない絶望している何かと同じように、壁に耳を当てている。もしかしたら、自分自身絶望しているのかもしれない。そんな気さえする。
 そうかもしれない。
 考えた。どうして自分が西浜と同じ大学に、同じ学部に進学したのかを。なのにどうして西浜に会いに行く気が、勇気がないのかを。
 と。物音に気付く。隣の住民が帰ってきたらしい。意識していたことはなかったが、壁はあまり厚くないようだ。
 ビニール袋。ことり、ことり。何かを取り出して、置く。またビニール袋。それから、戸の明け閉め。ただの生活音。
 何かがわかるとは到底思えない。
 それでもひよかは、残念がることもなく、一心不乱に聴いていた。そうしていることで、自分ではなく黒島であれると思った。自分でなくなれると思った。

 足音。笑い声。電車。それらが窓の外から聴こえることに気付く。
 朝になっている。
 壁にもたれたまま眠っていた。
 今日は講義がある。慌て支度をして、ひよかは玄関を飛び出した。
 違和感。
 振り返り、硬直する。
 ひよかの部屋は隅にある。昨日耳を当てた向こうに、部屋はない。
 ――バカみたい。
 自分の声が耳元でささやいた気がした。